昭和五十六年六月八日 朝の御理解
御理解第十二節「神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」
教祖の神様の神観。教祖の神様の心に映じている神様は天地そのものを感じ止められ、その天地と一体になられる道を開かれたというか、体得されたという事でしょうね。いわゆる教祖の神観です。私共は金光教の神観というように申しますけれども、金光教では天地をそのまま神様を拝むというのではね。そりゃそうかと分かるけれども、それではおかげにつながらない。やはり教祖様の神観。教祖様がそう感じられた。しかもその天地を御一体というところまで御信心を教祖は進まれた。というその神様でなからなければ、又その天地でなからねば、天地が自由になるという程しに天地が教祖金光大神の為に自由になられたと言われます。そういう働きになって来ない。その御教えを頂く私共もやはりその教えに帰依傾倒していきながらそれを体験する。
成る程金光教では天地そのものが神様だなあと実感の上でも分かってくる。成る程暑さ寒さも一切神様の御恩恵だと分かってくる。又、その御恩恵なしには私共が一時とても生きる事さえ許されないという事を、まあ体験の上にそれを分からせて頂く天地であり、天地金乃神様でなからなきゃならないし、だから私は教祖の神観という事だから私共の神観というてもいいわけね。
私は兎角天地をかく見てその天地がわかりやすく云うと、親と子の情念、情理をもってだから説かれる。ね、親神に対する子神であり、大天地であり又、私共が小天地と頂かれる訳なんです。
昨日は臼杵の志賀さんの所の霊の式年祭が丁度五十年、四十年、三十年といったように式年にあたられる霊が五柱あったんです。昨日は大々的に御親戚やらも皆遠方から合楽へみえましてここでまあお祭りを私が奉斎させて頂きましたが、長年の金光教の信心をなさっておられ、親戚の方もその臼杵ではないですけれども、近所の教会の総代までもしておられるという方達も皆集まっておられました。お礼に裏に出てみえられてから御直会前にあちらの御主人が随分霊のお祭りもさせて頂きましたけれども、はじめて涙がこぼれるというお祭りを初めて頂きましたとこう。本当に合楽で初めて霊様が助かって下さる手立てが出来られると思うたら、もう霊の喜びが自分の喜びとなって、もうとめどなく涙がこぼれたというお届けでした。
後の御理解にここの客殿に扇面に今の金光様がお書きになった四神様の御教えがかかっておりますね。皆さんもご承知でしょうと思うですけれど。それには平仮名で扇面にずうっとこう書いてありますが、四神様の御教えに「目に見えるところだけを大切にして目に見えないところは粗末にいたします」とある。目に見えるところだけを大切に、目に見えないところを粗末に致します。これは信心というのは、云うなら実を云うたら有るやら無いやら分からない、形には分からないけれども、私共が神様とこういう又、有るやら無いやら分からない自分の心をもってなら神様を拝ませてもらう。
云うならば神様を大切にするということは、目に見えないものを大切にするという事であり、自分の心をいよいよ大切にしていく事も目に見えない所を大切にしていく事になる。と同時にいわゆる御先祖の云うなら霊。家の根とも言うけれど、見えません、分かりもしません。拝んでも拝んでも分かりませんけれども、目に見えないと云うならば、私はお先祖の事。その目に見えない所いわゆる、云うなら丁鄭この上もないというようなお祭りでしたが、私が御神眼に拝ませて頂いたのもやっぱそうでした。ここに私共がここに出て来るようにしてから、ここの霊のお祭りをいう訳でもないですけれども、何かこういんぎんな式のような事があってのここからあのいつもお月次祭の時に出て来るここの楽室のここですね、丁度ああいう所からこの人達は七福神じゃなかろうかと思うように、恵比須様、大黒様の顔をした人達が五人もうこうやってね、手足をこうやって踊りながら出て来られた所を頂いたんです。
勿論それが霊の姿だったという事でもなかったでしょうけれども、云うなら五柱の霊の心の状態であっただろうと、それこそ踊り出したい程の喜びでこのお祭りを受けておられるという感じでしたね。その喜びが云わば丁鄭を極められたそのお祭りに表れて、それが霊様に天地の親神様の喜びともなり霊の喜びともなった姿であったというふうに思うんです。
信心をいくら熱心にしておっても目に見えるところだけを、おかげに現れてくるところだけを、有り難いと云うて、目に見えないところのおかげというものは、目に見えるおかげより目に見えないおかげの方が多いという事を分からせて頂けば頂く程有り難いものが募ってくる。そん為にはいよいよ目に見えないところを大切にしなければならない。そして初めて霊様だなあ神様だなあというものをこれは理屈ではなくて心に通うてくる。
天地が神じゃと、たとえそれが分かっただけでは、感動もなからなければ喜びもない。その天地が私共の為に働いて下さる、それを発見、分からせて頂いてはじめて感動となってくる。理屈ではだから金光教の神観、それは天地をそのまま神様として拝むんだと言えばそれまでですけれども、教祖金光大神の神観というのは御自信が体験されて、天地の御恩恵を自分の信心で受け止めて、それこそ降ってもおかげ、照ってもおかげというお心が開けてきたのが金光教です。だから私共もやはりそれでなからなきゃならない。
昨日の朝の御理解を頂いた後に、久留米の高田さんが毎日夫婦で今お参りになっておられます。もうここにみえられてそれこそ感動一杯で、もう親先生今日は身が奮うような思いでございます。御祈念中に「合楽のお教会の上に太陽が止まる」と頂いた。そしてもうこのあたり一面が、それこそオレンジ色で一杯に染まってしまった御神眼を頂かれた。
まさしく天地が自由になって合楽に特別な働きが起こっておるという事でしょうね。そして御理解を頂いたら開口一番親先生が、“オレンジ色の太陽の子、また心ふくらむ”といったような御理解だったでしょう。その合楽の色はオレンジ色と親先生が言うておられるし、そのオレンジ色というその御理解を頂いた途端に又感動が、もうそれこそここでお届けされるのにもうそれこそ本当に神様をじかに感じられたわけですね。
私は今日の御理解はそこん所を各々が分かって頂きたいと思うのです。どれ程しに合楽の上にかけられる神様の願いが大きいか、そう云うならばお教会に御縁を頂いておるという事もさる事ながら、その、神様を各々が頂けるという事。
天地の働きをです、云うなら私共のような者の上にでも一人一人の上にでも天地が自由になって下さる程そのおかげを感ずる事が出来て初めて、天地の恩の、恩恵のと言えるわけね。実感するという事です。
いよいよ合楽の云うならば御理解というものがね、これはただ事ではない、これは親先生の頭脳から出ておるというお話ではなくて神様、天地と交流されてからのあれはお話。 してみると、天地は私共に言うておって下さるお話しとして頂き止める事が出来る。
高田さんが頂いておられるように太陽が合楽の上に止まられる一時、そしてこのあたり一帯がいわゆるオレンジ色に輝いておるというのである。そう云うなら特別な御恩恵の中に天地が私共皆さん一人一人の上に自由にもなって下さるという働きを表したて下さる。
それを受け止める心、身が奮うような思いで、初めて霊祭を仕えて涙がこぼれたというのは今度が初めてだったと言われるように、為には目に見えない霊様をそれこそこれ以上の丁鄭さはなかろというように丁鄭なお祭りを仕えられた。そこに神の喜び、霊の喜びそれこそ躍り出てこられる躍り出したい程その喜びの情を霊が見せられた、それがそのまま御主人の心の中に有り難い涙になって現れた。ね、だから皆さんのね、金光教の神観というよりも皆さん一人一人の神観がです、そういう信心体験によってはっきりしてきた時にです、初めて云うならば金光大神のお取り次ぎを頂いて天地金乃神様を拝んでおるというその拝み方も変わってくるだろう。
いよいよ目に見える所を大切にするけれども、目に見えない所は尚更一層大切せにゃおられないという心も自ずと頂けてくるのじゃないでしょうかね。 どうぞ。